幽霊の君 ― 終わりと始まりのあわいに
幽霊とは、実に不思議な存在だ。
姿かたちは定かでなく、証拠も曖昧。それなのに、人はなぜか「確かにいる」と感じてしまう。夜道でふと背後を振り向いてしまうときや、古い旅館で布団に入った瞬間に「なんかいる…」と妙に落ち着かなくなるとき。科学的に説明すれば、きっと心の錯覚や過敏になった感覚の産物なのだろう。だが、それでも幽霊はしぶとく人の想像の中に生き続けている。
それはもしかすると、人間が「終わり」というものを完全に受け入れられないからかもしれない。
終わりとはなんだろう?
人生にも物語にも必ず「終わり」がある、と私たちは教えられる。
けれど、よく考えてみると「終わり」なんて本当にあるのだろうか。
夜が来れば「一日の終わり」だと人は言う。でも同じ夜は「明日の始まり」でもある。カレンダーがなければ、昼と夜が交互に繰り返されているだけだ。終わりと始まりはコインの表裏みたいなもので、結局は「呼び方」の違いにすぎない。
死についても同じことが言える。
人は死を「終わり」と呼ぶけれど、本当にそうだろうか? 「無」を想像しようとすると、どうしても「考えている自分」が前提になってしまう。つまり、人間は「完全な終わり」を想像することができないのだ。だったら死は、断絶ではなく、ただ別の形への移行かもしれない。
幽霊はその象徴かもしれない
幽霊は「終わったはずのもの」がまだそこにあることを告げる存在だ。
忘れられたくない誰かの想い、やり残した願い、あるいは単に「この世の居心地がよかったから」という理由。幽霊は、終わりを受け入れきれない人間の心に寄り添うようにして、形をとるのかもしれない。
だが、幽霊を「怖いもの」と決めつけるのは少し失礼だろう。
もし自分が幽霊になったとして、人に出会ったとたん「キャーッ!」と叫ばれたらどうだろう。きっと幽霊のほうが傷つくに違いない。「いやいや、そんなつもりじゃなかったんだよ…ただ、ちょっと挨拶に立ち寄っただけで」と。もしかすると幽霊の世界には「生きてる人に怯えられたあるある話」なんて座談会があるのかもしれない。
そう考えると、幽霊と人間の関係は、エレベーターで知らない人と二人きりになったときの微妙な空気に似ている。お互いに気づいているけど、あえて干渉しない。目を合わせず、なんとなく「はいはい、今ここに一緒にいるけど特に用事はないです」という距離感。それが一番平和なのだ。
終わりと始まりの橋としての幽霊
結局、幽霊は「終わり」と「始まり」が重なり合う境界に立っている。
死んだからといって、すべてが無に帰すわけではない。むしろ、幽霊の存在は「終わりの中にも始まりが潜んでいる」と、人にそっと示してくれる。
考えてみれば、人生も同じだ。
卒業は終わりであり、同時に新しい生活の始まり。別れは痛みを伴うけれど、次の出会いの余地を生む。人は「終わり」と「始まり」の境界に立つたびに、戸惑いながらも前へ進む。幽霊は、その“揺らぐ境界”を象徴する存在として、私たちの想像に寄り添っているのかもしれない。
ただ、時々ふと思う。
「果たして、こちらが“生きている世界”なのだろうか?」と。
私たちは向こうを幽霊と呼ぶけれど、もしかしたら彼らから見れば、こちらこそが「薄ぼんやりとした幻影」に過ぎないのではないか。夜の闇に浮かぶ白い人影を見て「幽霊だ!」と叫ぶ私たちの姿を、向こうの世界では「あっちにも幽霊が出たぞ」と指さして笑っているのかもしれない。どちらが本物で、どちらが幻なのか――考えれば考えるほど、疑心暗鬼に陥っていく。
だからこそ、幽霊は恐れるべきものというより、むしろ優しい案内人のように思えてくる。
「ここで終わりだと思っているけれど、それは同時に始まりなんだよ」――そんな言葉を、ひそやかに囁きながら、境界のあわいで微笑んでいるのだろう。
そして、もし夜道でふと背後に気配を感じたとき。
それは恐怖ではなく、ほんのちょっとしたユーモラスな合図かもしれない。
「…ところで、君は幽霊なのかい?」と。